多くの人が間違ったことを指摘されると、「あなたはそんなに正しいのか?
あなたは正しく生きてきたのか」と言って、自分の過ちを認めようとしない。
しかし、神を愛し、自分の魂を愛している人は、悔い改めなさい、という声の前に、
「アーメン、私の死は終わりました。私の呪いも終わりました。私の滅びることも
終わりました。私の苦しみも終わりました。私は自由を得ました」と告白する。
もし、呪い、病、事故、痛み、貧しさなどを避けることができない数多くの問題の
原因が、罪であるなら、その原因が見つからない場合、罪から逃れる機会がない。
罪が原因である場合は、悔い改めが解決策である。
「私の病だけを治してくれれば、イエスをよく信じます。」という病人がいた。彼は、
私が自分の頭に手を置いて祈ってくれるのを願った。しかし、私は教会に来て
説教を聞くようにと言った。一週間教会に来て説教を聞いて悔い改めをしたら、
私が祈ってあげなくても、彼の病は治った。病の原因が罪だったからだ。
このように、悔い改めは万事がよく運ぶための鍵のようなものである。
私は今でも難しさや痛みがあったり、一人で解決できない不可能があるときには
正座する。「神さま、神と私の間に遮っている壁は何ですか?」と、徹底的に罪を
見つけて悔い改める。そうすると、神と私の間を遮っていたものが開けて、問題が
解決されたりする。
イエスを長く信じてきた人々が病にかかって、信仰生活に挫折して、やることなす
ことがうまく行かないと文句を言うことは、神との間に何かへだたりがあるからである。
なぜ神からの助けがないのかを知らないと、死ぬまでカバンだけ持って教会へ
行ったり来たりする信者になり、数年間、教会に通っていたという履歴だけが残る。
私たちは、数年信じていたという履歴を残そうとするのではなく、神により頼んで、
日々聖い生活を心がけ、悔い改めによって罪を赦されるように生きなければならない。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞381号(2014-04-12)から抜き書きしました。