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[牧羊一念] 罪を探す神のみことば

  • 조회 3154
  • 2014.08.09 17:14
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イエスを信じている者は、信じていない者とは比較することができず大事な存在だ。

外見上にはイエスを信じる人も、肉の願うことがあり、未信者とわらないように

見える。

 

けれども、イエスを信じる者は、自分が福音の中で罪人であることを認めているので

一日一日罪を悔い改めて、イエスの血潮の労苦により清められ正しい者になる。

未信者は肉の願うことが罪であることを分からないので、道と倫理の中で正しい者に

なろうと思う。自分を罪人と認めて、主にわなければならないのに、罪がないと言い、

神に会うのを否定する不運な者である。

 

のみことばは、罪を見つける目のようだ。神のみことばの前で罪を見つけられない

生きる道がない。ところが、イスラエルの民は律法というみことばの前に罪を

見いだせず、自分たちの正しさ、義と表わそうとした。イエスは行動により姦淫して

いなくても情欲をいだいただけでも、すでに姦淫を犯した者と言われました。

 

「姦淫してはならない」 言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしは

あなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を

犯したのです」(新改訳、マタイ52728)

 

イエスがこう言われた意は、人間の恥部をさらけ出し屈服させようとしたのではない。

罪を見つけて生かそうという熱い愛の現れである。ところが、パリサイ人たちは、律法を

守ったという自分の義に満ちていたので、姦淫を犯した女を石打ちにして殺そうとした。

姦淫罪(出20:14)とともに殺人罪(出20:13)も十戒に含まれる。姦淫した女を石打ちに

して殺すなら、彼らは殺人の罪に当たる

 

このように、人間には罪を避ける道はない。神が律法を与えた理由は、律法の目で

人間の罪を見つけるはずなのに、パリサイ人たちは、罪を見つけられなかった。

それで、福音が必要である。ですから、罪のない者は、神を偽りの者とする者であり、

イエス·キリストの十字架の贖いを無駄にする者だ。

 


/ユンソクジョン担任牧師

 

教会新聞375(2014-03-01)から抜き書きしました。

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