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[牧羊一念] 栄光の日のために

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  • 2014.08.16 17:31
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私たちが、空中の権威を持つ支配者である悪しき霊と繰りげるで、

かならず打ち勝つべき理由は、最後のさばきの座の御前に堂々と立つためだ。 

 

私たちが神の御前に立つ日、私は信仰生活をよくやって来たと思っても、さばきの座の

前で、自分が間違ったのを知り、そのときに後悔しても何もならない。この世で生きる

あいだには、間違ったことを挽回するチャンスはありますが、信仰生活は永遠の問題な

ので取り返しの道はない。

 

信仰生活は永遠の問題なので、本に良くしないといけない。この世で永遠に私の

ものとしてるのは信仰生活しかない。しかし、自分のものでもないものせいで、

永遠のものをあきらめる人があまりにも多い。

 

信仰生活が誰のものかわからないからである。信仰生活が、全く“自分の働き”のように

見えないので、信仰生活をよくしたときにえられる光の“明日”が見えないということだ。

 

肉身の思いとしては信仰生活は自分のものではないし、信仰生活するのが難しい。

信仰生活が自分のものではないと思われるときは、何か奪われている、というして

悔しがって、文句が生じる。しかし、信仰生活は、すべてが自分のものなので、いくら

頑張っても、悔しくない。むしろ、主のためのによって肉体は苦しめられても魂は

大きなよろこびを覚える。

 

使徒パウロも、自分が受ける全ての苦難を通して勝ち、勝利して、征服するほど、

神の御には、「測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」(Ⅱコリント

4:17と言っている。その然自分のものなので、苦難も自分が受けるべきで、

そのが自分のものだから、苦しみも乗り越えて勝ち進まなければならないという

ことだ。

 

のみことばはすべて“私のもの”である。ですから、私たちの中に“信仰生活は、

私のものである”という事をつかんで自分を作り変えなければならない。

信仰生活の結果は、すべて自分の分け前だから、不して裁かれる分け前を

作らずに、天の報いと分け前に私たち自身を変えなければならない。

 

 

/ユンソクジョン担任牧師

                教会新聞396(2014-08-02)から抜き書きしました。

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