昔、祈ろうと思って‘三角山’によく登った。
一度は‘三角山’の山腹で50代半ばの男に出会った。
自分は牧師だと紹介したその男は、‘三角山’で祈りはじめてもう15年になったと
言った。なぜ牧会をしていないのかと尋ねたところ、「すべての御霊の賜物が
与えられてから牧会するつもりです」と答えた。 私が見るに、彼は大きな勘違いで
長い間、機会を逃しているように見えた。
私たちが祈る目的は、霊的な機会をつかむためだ。私たちがみことばを聞いて
祈る時間は機会をとらえる絶好のチャンスなのだ。
また、イエスを知らない人に出会って、伝道することも最良の機会であり、病人に
出会って、イエスの御名で病の癒しを祈ることも最高の機会だ。つまり、神の御恵みを
必要とする人に、神の御恵みを証しすることが最高の機会であり幸いである。
主のために使命を受け入れがたい時でさえも、チャンスはやってくる。そのとき、
チャンスを自分のものとして所有することができるようにしなければならない。
神のみことばと聖霊の感動は、私たちに与えられた最高の機会だ。
「絶えず祈りなさい」(1テサロ5:17)という命令は、答えられる機会を捉えなさいという
意味のみことばである。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでも
できるのです(マルコ9:23)」というみことばは、信仰によって不可能を可能にする機会を
所有しなさいという意味である。
私たちがこれまでチャンスをつかむことができず、逃してしまった実がどれほど多かったのか?
チャンスを逃した者は、主が来られる日、主にささげる実がない。その時になってチャンスが
なかったと言い訳することはできない。
神が与えてくださるチャンスは、人間が考えている良い環境でのみ来るのではない。
チャンスは誰にでも来る。しかし、利用しない場合は、そのチャンスは減ってしまうだげだ。
主が私に与えてくださるチャンスをつかみ、神様に尊く用いられる人になりましょう。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞401号(2014-09-13)から抜き書きしました。