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[牧羊一念] 堂々と伝えるイエス

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  • 2014.10.20 10:02
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今日のクリスチャンの中でイエス・キリストをえることを恥ずかしく思っている

人がいる。雑談や猥談は堂話しながら、私を罪から救われたイエスを、

恥ずかしがってなければ、イエスを信じていたとしても、信仰が全くない

人と同様だ。

 

天地万物を造られ、私たち人間を造られ、私たちの命をいつでも召されることが

できるお方、罪のゆえに永遠の滅びから私たちを救うために、十字架にかかって

血を流して死なれたイエス、そのように偉大なお方が、まさしく私たちの救い

主イエス·キリストである。

 

救われた人は、イエス·キリストを恥ずかしがらず堂える。使徒パウロは、

福音をえる者として選ばれてから、受ける苦しみを「恥とは思っていません」と

告白した。それはパウロが自分をお選びになって用いる主がどんなお方で

あるかをよく知っていたからである。

 

「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされた

のです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

私は、この福音のために、宣敎者、使徒、また教師として任命されたのです。

そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは

思っていません、というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、

その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると

確信しているからです」(新改訳、IIテモテ1:1012

 

私たちは、世の人々が思っているイエス·キリストについての歪曲された知識を

なければならない。イエスを世界4大聖人の一人として誤解した

ままにしておくのではなく、救い主として分かるように伝える必要があります。

これが道なのだ。

 

終わりの裁きの日に、私たちが主を恥と思った分、私たちもそのお方から

恥じを受けると聖書は言っている(マルコ8:38)。私たちは最後までイエスを

恥ずかしがらずに、大胆に福音をえる人にならなければならない。




 

/ユンソクジョン担任牧師

教会新聞404(2014-10-04)から抜き書きしました。

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