子どもの頃、うちの村の近所に、酔っ払いの男がいた。彼は泥酔状態になるまで
お酒を飲んで、泥の中に埋もれる事が多くあった。そんな時、近所の人々は、
「また、埋もれた!」と舌打ちしながら呆れるだけで、誰もその泥に入って助け
出してやろうとはしなかった。
ただ、その酔っ払いの家に行って、彼の妻に、「あなたの夫がまた泥の中に落ちて
いる」と告げるだけだった。その話を聞いて酔っ払いの妻は、急いで自分の夫が
いる泥の中へ駆けつけた。そして自分の全身が泥にまみれになろうがなるまいが
関係なく、夫を家に連れて帰った。
その妻の心の中には自分が泥の中に落ちようと、どうしようと、夫をその泥の中から
助け出し、連れて来る愛の力があるのだ。誰かを愛したら、その力が湧き出る。
愛はこのように隠すことができなくなり、現れるものだ。
主は私たちを花嫁にし、自ら私たちの花婿となられた。愛はどのような品格をも
崩し、どんな条件でも乗り越える。主と私たちの関係を考えたとき、創造主と
被造物の関係なので、お互いの品格が合わないのに、どうやって愛する関係に
なることができるだろうか?それでも主は、ご自分のからだを引き裂かれ、
その血によって、私たちの罪を贖い、私たちを愛し、ご自分の嫁にしてくれた。
新郎と新婦はお互いに惜しむもののない間柄だ。新郎と新婦はお互いに愛して
いるので二人でいれば、うらやむことがない。
私が主の新婦なら新郎である主だけいれば十分だ。終わりの時に、主は花婿を
慕い待ち望んでいる花嫁を迎えに来られる。
愛は学んで行うものではない。主に愛された人は、その内に主を愛するこころを
抱いている。ですから、新郎を待っている新婦は新郎の働きなら、すべてのこと、
すなわち命さえも惜しまずさし出すほど新郎を愛する。
私たちに、主に向かう愛がなければ、主の前に立つとき、喜んで会うことが
できない。愛せずに花嫁として花婿である主に喜んで会うことができない。
主の前に立つ日、栄光ある最高の喜びで出会いを望むなら、主を愛する
花嫁にならなければならない。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞397号(2014-08-09)から抜き書きしました。