ある医師は、死にかけている患者を手術して生かすことができて、嬉しくて
一晩中眠れなかったと言う。医師が患者の病気を治療するだけでそれほど
喜んでいるのに、永遠に地獄へ行くべき魂を生かす伝道者の喜びはどれほど
大きいことだろう。この世で最もやりがいのある仕事は死んでいく者を生かす
事なのだ。
天においても、一人の魂が悔い改めて父に戻ってくることを大いに喜んだと
言った。 「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い
改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが
天にあるのです。」(新改訳、ルカ15:7)
私たちは、世の人と区別された者である。すでに伝道された者であり、伝道する
力を持っている者である。これからは伝道されていない人のために走っていく
準備をしなければならない。初代教会の聖徒たちは、集まると祈り、散らばると
伝道した。つまり、伝道のために祈って、イエス・キリストのみこころを持って外に
出て伝道したという意味である。もし、切に伝道するこころがなければ、キリスト教は
自ら滞まらざるを得ない。
伝道の力は、しるし、能力に現れる。この力は決してことばでは表現できない。
理論を体系化した学問には、伝道のこころがなく、伝道する力もない。
私たちの中に「私は死んでも、あなたがたは生きなければならない」という
イエスのみこころ、イエスの心情によって魂を生かそうとするこころが崩れるなら、
その崩れた部分に世が入ってきて、崩れた分の肉の思いが現れ、崩れた分だけ、
罪を流した過去に戻ることになる。しかし、イエス·キリストのみこころがある人は、
恥ずかしいことにも勝ち、いけないという弱い思いも越え、不可能にも挑戦する
ことができる。
不信仰者が地獄に行く姿を眺めながら、生かそうとするこころに燃え、湧き上がる
イエスのみこころを持つ人がまさしくクリスチャンである。このこころを持って
あきらめずに、死んでいく魂を生かすことにこころを注がなければならない。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞406号(2014-10-18)から抜き書きしました。