イエスは、この地に来られ、人類が患っている多くの病を癒してくださいました。人類の罪を贖うため、十字架に付けられる直前に、残酷に鞭で打たれ、私たち人間のあらゆる病を癒してくださいました。主はこのように惜しみなくご自分をお捨てになり、私たちに仕えてくださいました。
今も、イエスに出会う人は不治の病を癒され、その魂は豊かないのちを得ています。このように、イエスにあって行う「仕えること」の中には豊かないのちがあります。
聖書で「仕える」という言葉は、この世の人たちのように博愛主義の精神を持って、人情、愛情、感情によって仕えるということではありません。
「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45)というみことばどおり、主はご自分のいのちを、贖いの代価として与えてまで、人間に仕えました。それによって人類が救われました。
教会でも長老、勧士、執事がイエスのみこころを持って、救霊の情熱を抱いて仕えると、多くの魂が生かされます。仕えた後には、必ず生かされるという神のみわざが現れます。聖霊が監督者として立てられた牧師は、講壇で、一人でも多くの人が救われ、天国に入ることを望むイエスのみこころを持って説教し、真実に聖徒に仕えます。
このような「仕えること」を受けた聖徒は、神のいのちあるみことばによって、魂が生かされ、救われた恵みに感謝し、使命感を持って職分を果たすようになります。おのずと魂を救おうとするイエスのみこころが、彼らにも現れます。農夫が種をまいた後、肥やしをやり、手入れをし、育てる目的は、秋に「実り」という豊かな富を得るためなのです。
私たちが教会で仕える目的も、多くのいのちを際限なく生かそうとするためなのです。私たちの「仕えること」の中には、必ず、イエス·キリストによって救われ豊かないのちに生かされる働きがあります。ですから、仕える人が多い教会は復興します。神は、救霊の情熱によって仕える教会、生かす教会に、より多くの魂を任せてくださいます。
ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞411号(2014-11-22)から抜き書きしました。