【牧羊一念】どこに捕らわれているか
私たちは、自分が今誰に捕らわれているのか、誰に捕らわれどのように支配されているのかを見定める目を開かなければなりません。「目が開いた」とは、「目覚めた」ということであり、「目覚めた」というのは「悟った」という意味であり、「悟った」というのは、「何事かを決めた」という意味です。
私たちは、この世で生きる日々が、神の裁きの御座の前で、死ぬか生きるか、呪いか祝福かという重大な最後の永遠なる結論を左右するということを忘れてはなりません。
私たちが捕らわれるべき方は神だけです。神が私たちを捕らえてくださるのは、私たちの罪を赦し、滅びから、病から、呪いから救ってくださるためです。また、必要に応じて用いられるためです。
神に捕らわれた人は教会に行きたいと思います。祈りたいと、主をほめたたえたいと思います。また、神に感謝したいと思います。何よりも、イエスを知らず滅びの地獄へ行く者へ伝道したいと思います。しかし、情欲により世の文化や物質に捕らわれた人は、世の享楽と快楽を望みます。
私たちは生活の中で、自分がどこに捕らわれたのかを悟り、みずから邪悪な敵の罠につかまらないようにしなければなりません。神が誰かの病を癒し、悪霊を追い払い、救おうと望まれるとき、私たちは主の手に捕らわれ、尊く用いられなければなりません。
私たちが生きる目的は、肉の時の生活が終わってただ永遠なる魂の時のためです。したがって、神に完全に捕らわれなければなりません。そうするためには、聖霊に満たされなければなりません。聖霊に満たされることは、神が私を完全に掌握し、支配することを意味します。「世に捕らわれるか、神に捕らわれるか」、これは悩む余地のない問題です。
今あなたがどこに捕らわれているか、確かめてみてください。私たちは、神に完全に捕らわれ、用いられて、魂の時には永遠なる幸せを享受すべきです。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞 486号の記事です。