【牧羊一念】世の価値、世間の物差しにだまされる人生
世の価値基準は常に変化していくものなので、私たちは常に世の基準にだまされつつ生きていると言えます。たとえば、値段が上がるだろうと思って住宅や土地を買ったのに、時間が経つにつれ、その価値が落ちてしまったとすれば、その分、世の基準にだまされたということになります。この世で生きながら、誰しもが一度は、このような経験をしたのではないかと思います。
流行も同様です。しばらくの間、髪を染めてきれいに見せようと、黄色や赤色に染める人がいます。しかし、いくらきれいに見せようとしても、髪を染めた人の本質は変わらないのです。その人に変わりありません。無駄なことです。ドラマにはまることも同様です。ドラマに熱狂すれば、しばらくは楽しくて興奮します。連続してドラマを見れば見るほど没頭してしまいます。最終回まで見てしまい、感動の余韻も残り、記憶の中でいろんなシーンが巡り巡って、またドラマが見たくなります。しかし、そのような時間も考えてみると、すべて何の益もなくだまされたということになるのではないでしょうか。私のたましいには何の助けも役に立つこともないので、無駄にただ時間を費やしただけなのです。
人々は世の文化、物質、文明、流行などが自分を残酷にだましているにも関わらず、一度も「自分がだまされている」と疑いを持つこともせず、それに立ち向かうこともせず、むしろその中で浮かれて暴れているのです。この世で無駄に浪費した時間が私たちの肉体に楽しく感動的なことを与えているとも言えます。しかし肉体が終わった後、神の裁きの座の前で、だまされた人生、投げ出された人生、刈り取るものがない人生、無益な人生だったという事実を悟るなら、その時どうするのでしょうか。
その無駄に費やしてきたすべての時間を考え、自分のたましいのためには有益な日々ではなかったと悟る時、自分のたましいはどうなるのでしょうか。正しく生きてきたと思った私たちの人生が、ルカの福音書16章に出てくる金持ちのように、自分のたましいを地獄に投げ込む結果をもたらすなら、どれほど悔しくて残念でならないことでしょう。
私たちを欺くものに弄ばれてはなりません。欺いている世の流れ、物質、友人にだまされてはなりません。欺く世、環境、自分にだまされないで、欺くことがまったくない方は天の父なる神さまだけという事実を知り、信仰生活をしっかりしていかなければなりません。
/ユン・ソクジョン牧師
教会新聞562号の記事です