【牧羊一念】裁きの日に賢き者
信徒は主の花嫁です。しかし、花嫁と言いながら、実際のところ主にどのように接していますか?花婿である主をむしろ苦しめてはいませんか?私たちは、信徒として自分の信仰をよく見つめなければなりません。果たして主が望まれる歳月を送っているのかを確かめ、私たちに与えられた肉体の時を賢く過ごさなければなりません。そのようにして、主を花婿として迎える準備をしっかりとしなければなりません。
主と私たちがこの世でどのように生きたかを顧みる日が必ず訪れます。まさに「裁きの日」です。私たちは、神の国に至る日、肉体の時を一番賢く生きてきた人でなければなりません。その日、主の愛を熱く受けとめられるよう、肉体で生きていくあいだ、神のみことばに従順に忠誠を尽くさなければなりません。
私は、牧師として賢く生きることを願っていますが、そうできない時がたびたびあります。まさに信徒に公平に仕えることができない場合です。信徒を見つめるとき、ある信徒のことを思うと、もう一人の信徒のことが気の毒になり、その信徒のことを考えると、今度は先ほどの信徒のことが哀れに思えるといったように、賢く接することができなくなります。
また、先に信仰生活をしている信徒のことを考えれば、教会に来て忠誠した働き人である彼が主の働きから疎外されることがないようにしなければならないし、後から教会に来た信徒のことを考えると、愛は親から子へと言われるように、新しい家族が恵みを受ける姿を見るといとおしくてしかたがありません。そうするうちに信徒に接するときに、愛の公平性を失う時がたびたびあるのです。
問題は、信徒たちがこのようなことに対して、牧師が信徒を愛する心からくる自然なことであるとは思わず、時に誤解してしまうことがある点です。皆全て平等にいとおしいのです。天の国に行けばみな分かることでしょう。私は信徒たちが各自の信仰生活にとって有益な環境を作り、天の国で最も輝かしい栄光の席に座り、神の愛をたっぷりと受けとることを願っています。これが最後の日に賢き者となってほしい、牧師の願いです。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞500号の記事です。