【牧羊一念】主の関心の中にいる人
「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。 その悪魔のわざを打ち破るために、神の御子が現れました」(第1ヨハネ3:8)。
罪を犯した者は、決して神とともにいることができないという事実を記した聖書の一節です。神に属する者はみな、神が嫌われる罪を憎みます。ところが、この敵のような存在である罪をみずから犯し、そのような自分を傍観しているとしたら、その人はその罪の代価ゆえに滅びるしかありません。
イエスが人間の罪を代わりに背負い、十字架で血を流して死なれた瞬間、私たちが神のもとへ行けないようそびえていた罪の壁は崩れました。神の子イエスが私たちの罪を担ってくださいました。私たちは、その事実を信じることにより、神の愛を受けとりました。不義を犯し、神に見捨てられるか、義を行って神の関心と愛を受けとるかということは非常に重要な問題です。この世で生きるあいだ、神に関心を注がれ、神に愛されながら生き、魂の時に天国に行きたいと願うなら、神のみことばを守り、イエスをたたえ生きるべきです。
神の御子イエス、神のみことば、いのち、この三つは同格です。神の御子が血を流してくださったので、罪に滅ぶべき私たち人間は永遠のいのちを得ました。神の恵みのみことばがあるすべての者には、神のいのちが満ちています。神のいのちがある者は、神に関心を注いでいただける者です。
この世の中はお互いに噛みついたり、盗んだり、損害を与え、多くの人々はあわてふためきます。しかし、神は私たちに永遠のいのちを豊かに与えようとしておられます。神は、一人として神を離れて地獄へと落ちることを望まれません。神をののしり挑戦し迫害した人でも、罪を悔い改めてイエスを救い主として告白すれば、その人を永遠に生かしてくださいます。このように、キリスト教はたましいを救うことが目的です。
私たちの人生を神に覚えていただかなければなりません。神が私たちに関心を注いでくださることこそ、人間に与えられる最大の祝福です。
ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞 496号の記事です。