【牧羊一念】 絶えず祈りなさい
私が今まで出会った多くの人の中で‘祈りに行きましょうか’と誘う人はほとんどいませんでした。ところが、おいしい有名なレストランがあるので‘食事に行きましょう’、素敵なところがあるから‘観光しに行きましょう’と誘う人は多かったです。
ゲッセマネの園でイエスの叫ぶ祈りのように切に祈りましょうと勧める人に会ったことはありませんでした。私は多くの人に‘祈りしましょう’と絶えず勧めます。
祈りは何でしょうか。私たちは、自分の力では解決できない問題を神の助けにより解決しようと祈ります。私たちの不可能を解決する道があるということはどれだけ恵まれた人生でしょうか。このように貴い大きな祝福をいただいたのに、どうして祈らないのでしょうか。それは肉の思いが邪魔するからです。私たちは他のものがすべて崩れ落ちても祈りの時間だけは確保しなければなりません。
疲れ果ててくたくたになっても自分の意思で肉体を使って祈りを始めると、神の力が注がれます。その力で礼拝の時にも御言葉を鮮明に聞くことができます。これはすでに自分のたましいが主の助けによって生き生きしている証拠です。ところが、祈りを始める時までが問題なのです。私たちの体は祈ることを嫌がります。
しかし、疲れや嫌気を乗り越えて祈り始めることができれば、その後は神が祈る力を与えてくださいます。肉体を使って祈り始める瞬間まで力を尽くしてください。肉の願うことを乗り越えて神の前に跪いたその時から、神が与えて下さる祈りの力によって祈ることができます。肉体を使って祈りを始めることは私の役割であり、その後は神が祈る力を与えてくださいます。
聖書は私たちに「絶えず祈りなさい」と言っています(第1テサロニケ5:17)。時が良くても悪くても、信仰生活をしっかりするようにと言われる主のみこころが実感できませんか。神が「祈りなさい」と言われたのは、私たちの信仰が弱くて、祈りなしには、神の助けなしには生きていくことができないことを知っておられるからです。
/ ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞<671号>の記事です。