【牧羊一念】正しい信仰の人格者
今日、熱心さはあるが信仰のない信徒が多いです。
信仰があるとは、神の御言葉通りに生きていくことを意味します。神の御言葉通りに実現すると信じる者が、神の御言葉に従うことができます。神の御言葉が「あ」と言えば「あ」、「お」と言えば「お」と言って従わなければなりません。聖書に安息日を聖なる日とせよ、と言われたのでしっかり守らなければなりません。ところが今日、主日を聖なる日とせず、自分の思いのままに生きながら教会だけ熱心に通っている人が多いです。このような人は勝手気ままな人であり、福音を肉体の機会とする者なのです。神の御言葉通り裁きの日は必ずやってきます。その日は誰も避けることができません。
信仰生活は‘母胎信仰-生まれる前からお母さんのお腹の中で守られてきたこと’を誇ったり、何代も信じてきたことを誇ったり、または殉教者の家柄だと自慢したりするものではありません。殉教者を100人生んだ家系でも、彼らの信仰では一人の子孫も救われません。私たちは各自福音によって生まれ変わり神の前に進み出て、義に飢え渇く自分を、イエスの供給されるいのちによって満たさなければなりません。
十人のらい病人が主の恵みにより癒されたが、九人は感謝しないままどこかへ立ち去って一人だけがイエスに感謝しに来ました(ルカ17:12〜19)。彼は、自分を癒してくださった主に感謝しないままで家に帰ることができませんでした。私たちもこのように恵んでくださった主の前に感謝しないで立ち去ることができない人にならなければなりません。この人がまさに正しい信仰の人格者なのです。
らい病人が癒されたとき、家に帰ってどれほど誇らしかったでしょうか。清くなった自分の姿を家族や隣人に見てもらいたくてたまらなかったでしょう。ところが、十人中一人だけが病を癒してくださった主に感謝しに戻ったわけです。自分を治し恵んでくださった主に、まず見せて感謝したかったのです。私たちはどんな働きよりも主の働きを優先する人にならなければなりません。
/ ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞<640号>の記事です。