聖霊により、祈りたいという強い感動を受けるときがある。聖霊が祈ることの感動を
与えられたなら、ひざまずくとき、すでに求めることを分からせて、祈らせたように、
答えるという聖霊の意志を示されたのだ。
ところが、たまに疲れ果てて、あとで祈ろうと思う聖霊の感動を無視する人に会います。
私たちの内に聖霊が感動される多くのことがあっても、すぐに行動しなければ、
聖霊の感化と感動はすぐに消えてなくなってしまう。
私たちが休まず毎日祈る理由は、世にながされ、聖霊の願われるとおりに生きて
いなかった点を悔い改めて、毎日聖霊に満たされる生活に戻りたいためなのだ。
聖霊に導かれる霊的な人は、祈りを通して聖霊が喜ばれるときに一緒に喜び、
聖霊が悲しむときに一緒に嘆く。祈るときに考えと心が聖霊の御心と一つになる。
一方、肉的な人は、祈ることが嫌いで習慣的な信仰生活をすることだけで満足する。
祈るのに良い環境なのに、祈ることを嫌っている。このような人は「以前、たくさんの
祈りをしたので、今はしなくてもいいじゃないですか?」と、思ったりもする。しかし、
祈りは、卒業がない。祈ること、これは自分の力ではできない。自分の信仰生活を
維持することもできない。肉の願うことと不義を解決することができないので、神から
霊的に生きていく能力と力を与えられるように生きようとするあがきなのだ。
祈らなければ、霊的な生活を脅かす邪悪な勢力に打ち勝つことができない。
肉の願うことが強く現れるほど、霊的な生活は崩れて廃墟になる。
聖徒たちよ!祈りましょう。聖霊が感動をあたえるとき、さらに祈りましょう。
祈りなしでは何もできない。聖霊の感動、感化を受けることができず、
たとえ受けるとしても、従う力が全くない者になる。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞369号(2013-01-11)から抜き書きしました。