【牧羊一念】祈りに満たされる霊的な渇き
この世では、私たちの願うとおりにならないことが非常に多くあります。しかし、霊的な渇きは神のみことばと神を慕う熱情、そして信仰の祈りでいつでも満たすことができます。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」(マタイ5:3)という言葉は、自分の中に天国がなくて貧しく感じる者は、霊的な渇きに従って祈るようになって、その結果、天国を心に満たすことができるということです。ところで、もし私たちが食べて飲んで着る肉の本能だけ充実して永遠に存在する霊的な本能をないがしろにすれば、その損害は莫大です。私たちは、霊的な存在なので霊的な本能に集中して生きなければならないのです。
私たちは聖なる欲がなければなりません。祈りをよくすることは霊的な欲を満たすためです。礼拝の時ごとにみことばを慕い聞き、熱心に聖書を読んで、そのみことばを実現するために祈る人が霊的な欲で満たされている人です。
バルテマイという盲人は、多くの人に囲まれたイエス·キリストに会うことができませんでしたが、結局、彼の叫びがイエスを立ち止まらせました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」(マルコ10:47)と切に叫び求める彼の祈りの声が神の御子を止めたのです。イエスは自分を慕う者に自分の声を聞かせようと足を止められます。祈る者の前で、彼の願いを聞くために足を止められます。
このように、霊的に飢え渇いている者の切なる祈りが神を感動させます。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです」(マタイ5:4)と語られました。このように、悲しむほど飢え渇いた人が祈って、その切なる祈りに神は答えられます。
信徒よ!霊的な渇きを感じなさい。聖なる渇きを満たすために祈りましょう。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞384号の記事です。