神の恵みを受けて教会にまじめに出席してきた信徒が歳月が経つにつれてゆるい
信仰者になって行く様子をしばしば見る。主がラオデキヤ教会に警告されたように、
私たちの信仰生活も決してゆるくなってはならない。
「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。
わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたは
なまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう」
(新改訳、黙示録3:15-16)
信仰生活がゆるくなったということは、すなわち感謝を忘れてしまったという意味だ。
“今日一日もイエスの恵みにより、生きるようにしてくださり、ありがとうございます。
この地に多くの人の中で、わたしを覚えてくださり、救ってくださり、ありがとう
ございます。私の罪を贖ってくださるために十字架にかかって死なれ、血を
流された主の恵みに心から感謝いたします。多くの人がこの世で罪を犯して
生きていますが、私には、主が共にいてくださり、感謝します。いますぐ死ぬと
しても、天の御国で主と共に永遠に幸せに生きることになったので、本当に
ありがとうございました”
このような感謝の内容を持って切に祈る人が果たしてどれくらいいるのか?
感謝していないことは、主が私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、
私たちを救ってくださった恵みが、それだけ薄れてしまった、ということである。
私たちは救われた恵みを絶対に忘れてはならない。すべてのことについて
主イエス・キリストの御名により、父なる神に感謝しなければならない。
いやしの力も、イエスの名によって行い、神の恵みも、イエスの名により求め、イエスの名を信じるゆえに救われます。
私たちは、イエス・キリストの御名により溢れる感謝をささげることを知るべきです。
このように、イエス・キリストの御名を持つ者がその恵みに感謝して、神様に栄光を
帰すのがまさしく神様があなたに望んでおられる感謝である。
/ユン·ソクジョン担任牧師
教会新聞392号(2014-07-05)から抜き書きしました。