私は牧会を遅く始めたので、時間を短縮しようと、教会を開拓した当時から、他人が寝ている
時にも、寝る間も惜しんで神様に祈りをささげました。神様が見られる時、私の器を何とか大きく
してお見せしたかったからです。そして、教会がもっとリバイバルすることを望んで、神様の目
に私がより大きな器になれば、多くの魂を送ってくださるであろうと期待していたからです。
器は、魂を受け入れることができる容量である。この世に来られたイエスは、その限界を測定
することができないほど大きな器だった。イエスは自分をばかにし、打って殺す人々さえ
分けへだてなく抱かれた。
最初の殉教者であるステパノも同じだ。イエス·キリストを伝えるという理由だけで、自分自身を
石打ち殺す同族を見て、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい。」(新改訳、使徒7:59
〜60)とすべてを抱いた。彼に人類を抱くだけのイエスがいてくださったからこそ可能な
ことであった。また、使徒パウロはどれくらい大きな器だったか。主が「この人は私の名を、
異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、私の選びの器です。」(新改訳、使徒9:15)
としていなかったのか?
私たちは、自分自身のスケールを主に似せるまで大きくしていかなければならない。
あわせて、祈りに大きな答えを願うならば、熱心に祈って自分の器を制限することなく大きく
していかなければならない。主が教えられた祈りに「御國が來ますように(マタイ6:10)」
と祈るほどになるには器がどれだけ大きくなっていなければいけないのか?
主がこのように祈ることを教えてくださったのは、それほど大きな器に、自分自身を
造りなさいということだ。どんなに雄大で素晴らしいことを祈っても、私たちが答えられるだけの
器に なっていなければ、受けることができない。答えがないと文句を言うことではなく、神様が
許された答えを受け入れられるほどの大きな器になっていない事実を残念に思って、答えられる
自分になっていかなければならない。
主よ!私の器をきれいにされ、大きくされるように!
/ユン·ソクジョン担任牧師
教会新聞386号(2014-05-17)から抜き出しました。