神は、ひとり子の名誉をかけて祈りに答えると約束された。答えるという約束は、
すべての人に与えられた約束ですから、私たちは強く神の約束を信じて
祈らなければなりません。
ある人は「必ず祈るべきなのか?神がすべて知っておられるのに」と言う。イエスは、
神が知らないと思われてそう毎日祈られたのか?また、神が使徒たちの必要なことを
知らなくて彼らはそのように祈りに専念したのか?神は、私たちが祈りで求めた分だけ
自分の名誉によって気にかけ、責任を負われる。したがって、不可能が横行するこの
地に住む私たちは、神が私の問題の責任を追ってくださるように心底から祈らなければ
なりません。
イエスにも祈る必要があり、いつも静かな山に行って祈られました。もしイエスが静かに
心の中にだけ祈っても大丈夫であったら、わざわざ山に登って行く必要がない。心を
集中して叫んで祈ることを望まれたので、わざわざ山に登られたわけです。
私たちも、家で叫んで祈りしにくく、いろいろな雑念のために口だけで繰り返すだけの
祈りになりやすい。このような雑念にとらわれないように教会に来て叫んで祈るのです。
悪魔は叫ぶ祈りを嫌っている。答えられたときには、彼を支配していた悪魔は去って
行かなければならないので、悪魔の働きは、常に叫び祈りをしないように妨害する。
水に溺れて死んでいく人は、必死に「助けて!」と叫ぶしかない。同様に、患難が迫って
来る人は絶対に冷静な心で祈ることができない。叫び求める。問題と苦痛が多くの人々は、
少しだけその人の立場で話を聞いてくれれば、自分の心を開いてすべてのことを話す。
このように、数多くの問題を抱えている人々は神の御前に正座した時から、自分に必要な
ものを涙で叫んで祈るようになる。祈りの答えが切なるからこそ、もっと叫び求めるしか
ありません。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞383号(2014-04-26)から抜き書きしました。