虎がどんなに恐ろしくとも、それが剥製なら話は異なります。革だけの虎を恐れる者はいません。表面上は信仰深いクリスチャンであり、教会でいくら偉い職分者だとしても、そのこころにイエスがいなければ、彼は剥製クリスチャンに過ぎません。
このごろ教会の職分者の中にも剥製が多く、問題です。職分者はまず、自分の中にイエス・キリストのいのちを持たなければなりません。イエスを伝えずにはいられないはずです。それがまさに、生きているクリスチャンです。
初代教会ステパノ執事の、こころの内にある熱いイエスのいのちが、ステパノ執事を後押しして、自分の民であるユダヤ人のところへ行って、イエスの十字架のことばを伝えさせました。
当時のユダヤ人たちの目で見れば、イエスは、神聖冒瀆の罪を犯した罪人の中の罪人でした。イエスを、十字架によって処刑されるのが当然な罪人のかしらのように思っていたのです。そのような、イエス・キリストの道に従うステパノを、議会に集まった人たちは町の外に追い出し、一斉に石で打ち殺しました。
ステパノ執事は石に打たれ殉教しました。彼はこときれる瞬間まで、自分の民にイエス・キリストを伝えました。誰も、ステパノが死んでも悲しませんでした。むしろ、死んで当然だと扱われました。
しかし、主は天の扉を開け、神の右に立ってステパノの魂を待たれました。ステパノに殉教する力を与え、支えてくださいました。また、天の御座から立ち上がって、ステパノの霊を受け入れました(使徒7:54-60)。
神は、命を尽くして福音を伝える者に聖霊による強い力といのちを与えてくださいます。そして、福音の働き人として用います。聖霊の力で躍動するいのちの福音を、絶えず伝える者が本当の職分者であり、福音の働き人です。
ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞372号(2014-02-08)より、抜き書きしました。