十字架の刑罰だけを見ると、それは罪悪の象徴です。まさに、人類が負うべき罪の枠組みであり、怒りの象徴です。
「罪の代価は死」(ローマ6:23)であるから、罪人である人間は、自分の力でその怒りを避けることができません。しかし、神のひとり子イエス・キリストが十字架にかかって死なれ、呪われた人間の姿を隠しておられるので、その怒りと裁きを避けることができるのです。これが私たちの救いです。
神は、十字架にはりつけられたイエスの死を見て、人間の罪を見ないようにされたので、十字架は、人間の罪を記憶しない神の愛が集結されたところです。したがって、私たちは「十字架の後ろに私を隠していただいて」と祈るのなら、少なくとも自分がイエス・キリストを死なせた罪人であることを認めるべきです。なぜなら、イエスを十字架に死なせた罪人であることを認めなければ、自分の罪を十字架に隠すことはできないからです。
また、十字架の後ろに私を隠してくださいという言葉は、「私が担って死ぬべきである十字架ですが、あなたが代わりに背負ってくださり、私を生かしてください」という切迫した要求であります。私の代わりに死んでくださることを、イエスに強く懇願することです。
ですから、十字架の前に立った者だけが、自分がどんなに厚かましい存在であるかを、初めて知ることになります。それなのに、ある人々は祈るとき、神に与えてくださることだけを厚かましく繰り返し求めます。もちろん、何でも祈りなさいと言われたが、ひとり子さえも与えてくださるほどに、私たちを愛してくださった神の御前に、厚かましい自分の姿を見た者は、ただ求めるだけの祈りが先立ちはしません。むしろ、どうすれば神に自分をもっとささげられるかという切なさが溢れ出ます。
十字架の前に、自分が相変わらず厚かましい者であることを悟っている人だけが、イエスを切実に必要とする人であり、イエスの恵みによって生きようとする人です。
ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞380号(2014-04-05)より、抜き書きしました。