聖霊が臨むとは、人類の救いのための父なる神のみこころと、イエス・キリストが十字架で血を流された生涯が、私に現れたことを意味します。すなわち、三位一体なる神の、人類の救いというすばらしいみわざが、私に現れたということなのです。
もし私が、聖霊がとどまる聖殿としての準備ができていなければ、神なる聖霊を私のうちに迎え入れることはできません。聖霊が臨まれることを願うなら、罪を悔い改め、イエスの血による贖いで罪の赦しを受けなければなりません。聖霊が働かれると、私のうちで罪を指摘し、悔い改めることを求める要求を避けることができません。罪を吐き出さずには、耐えられないからです。
このように、私たちが聖霊の悟らせるままに罪を悔い改めるとき、罪の赦しを受けることができ、聖霊に期待し慕うとき、聖霊を受けることができます。聖書は、求める者に聖霊を与えられると約束しています。 「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(新改訳、ルカ11:13)。
私たちの信仰生活の絶頂は、聖霊を迎え入れる資格、能力、品位を備えた時です。それで神は、イエスを信じる私たちを、聖霊を迎え入れる聖なる聖殿に例えられました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(Iコリント6:19-20)
神である聖霊を迎え入れた聖殿が、まさに 「わたし」というのは驚くべき事実です。私たちを、聖霊がとどまる聖なる聖殿、宮としてくださったので、今や、私たちはそのお方を迎え入れた者として、常にそのお方が私のうちで、不便ではないかをチェックしながら、聖霊の思いのまま、聖霊の感動のままに生きなければなりません。聖霊がご臨在されたとき、聖霊は私を通して聖霊の働きを際限なく示されます。これがまさに、聖霊に満たされる生活なのです。
ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞409号(2014-11-08)から抜き書きしました。