イエスを信じている者は、信じていない者とは比較することができず大事な存在だ。
外見上にはイエスを信じる人も、肉の願うことがあり、未信者と変わらないように
見える。
けれども、イエスを信じる者は、自分が福音の中で罪人であることを認めているので
一日一日罪を悔い改めて、イエスの血潮の労苦により清められ正しい者になる。
未信者は肉の願うことが罪であることを分からないので、道徳と倫理の中で正しい者に
なろうと思う。自分を罪人と認めて、主に会わなければならないのに、罪がないと言い、
神に会うのを否定する不運な者である。
神のみことばは、罪を見つける目のようだ。神のみことばの前で罪を見つけられない
と生きる道がない。ところが、イスラエルの民は律法というみことばの前に罪を
見いだせず、自分たちの正しさ、義と表わそうとした。イエスは行動により姦淫して
いなくても情欲をいだいただけでも、すでに姦淫を犯した者と言われました。
「姦淫してはならない」 言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしは
あなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を
犯したのです」(新改訳、マタイ5:27〜28)。
イエスがこう言われた真意は、人間の恥部をさらけ出し屈服させようとしたのではない。
罪を見つけて生かそうという熱い愛の現れである。ところが、パリサイ人たちは、律法を
守ったという自分の義に満ちていたので、姦淫を犯した女を石打ちにして殺そうとした。
姦淫罪(出20:14)とともに殺人罪(出20:13)も十戒に含まれる。姦淫した女を石打ちに
して殺すなら、彼らは殺人の罪に当たる。
このように、人間には罪を避ける道はない。神が律法を与えた理由は、律法の目で
人間の罪を見つけるはずなのに、パリサイ人たちは、罪を見つけられなかった。
それで、福音が必要である。ですから、罪のない者は、神を偽りの者とする者であり、
イエス·キリストの十字架の贖いを無駄にする者だ。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞375号(2014-03-01)から抜き書きしました。