健康な木はどんなに雨風が吹きつけても必ず実を結ぶ。同様に、私たちにチャンスが
訪れたならどんな試練が来ても、そのチャンスを絶対に逃してはならない。
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を
聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(新改訳、イザヤ6:8)
神がお尋ねになるとき、「ここに私がおります。私を遣わしてください。」と言った預言者
イザヤのように、神が必要とされるときに、神の前に進み出る者が実を結ぶ機会を捉える
ことができる。神が与えられる機会を制限せずにすべて同意するとき、神はその人を
用いられる。
主が、「私はあなたに多くのチャンスを与えたが、あなたは私が与えた機会に同意し
なかった。世の富や名誉、権力を得ようとする機会は執拗に得ようとしたが、私が
与えた聖なる霊的な機会はすべて無視して、あなたの欲望を満たす機会だけ
捉えた」と責められるならどうするだろうか?
神が与えてくださったチャンスは、命よりも大事である。十字架の死は、父なる神が
御子イエス·キリストに与えた人類を生かす絶好の機会であった。
イエスは、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
(新改訳、マタイ26:39)と 叫びながら、人類を救う偉大な機会を逃さず従順された。
神が与えられる機会は霊的な作品を作る最高のチャンスだ。痛みを忍耐して
チャンスをつかむ者に復活の栄光があり、迫害に耐え忍び、機会をつかむ者に
栄光の報いがある。主のために命を投げ出すことより他に最高の作品はない。
いつのまにか、2014年も締め切られていく。残りの時間、私に与えられた
霊的な機会を捉えて、最も美しい実を主にささげる祝福された人になりましょう。
/ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞407号(2014-10-25)から抜き書きしました。