【牧羊一念】実を結ぶ信仰
神は、私たちにイエス·キリストによる「救い」、すなわち「福音」といういのちの種を植えられました。よって、私たちはいのちの種が蒔かれた畑のような存在です。神のみことばは「種」なので(Ⅰペテロ1:23)、みことばが私たちのこころに蒔かれれば、私たちはそのみことばどおりに芽生え、花を咲かせ、実を結ぶよい畑にならなければなりません。実は、神のみことばに従う時、神が直接実らせます。すなわち、神のみことばに従った結果が実りなのです。
春に種を蒔くと、芽が出て成長し、秋にはかならず実を結ぶように、神のみことばを聞いたら、そのとおりの行動をしなければなりません。神のみことばをたくさん聞いて、知識的にどんなに豊かに知っていたとしても、みことばに従わない者は、実を結ぶことができません。したがって、生きていても実際は死んだ信仰なのです(ヤコブ2:26)。
万物は、物理的な時間の影響を受け、時が来れば実を結ぶが、神のなさる霊的な働きは、時間と空間を超越して行われます。イエスを信じるその瞬間、私たちの魂は新しくなり、豊かな実を結ぶことができます。私たちは、今この瞬間にも、主が与えてくださるいのちにより、熱心に信仰の実を結ぶようにしなければなりません。
農夫が懸命に働いてはじめて良い実を収穫できるのと同じく、私たちも自分に託された主の働きを忠実に果たしたときに良い実を得ることができます。主にささげる実がなければ、実を待たれる主と無関係な者になってしまいます。主の前に立つとき、誰もあれこれと実がないことの言い訳をすることはできません。もし、言い訳する者がいれば、主は、彼に「私はあなたに祈るように言ったではないか。私を信じて頼れば、私が手を差し伸べると言ったではないか」と問い返すでしょう。
主が来られるとき、豊かに実を結ぶ信仰だけが認められるのです。
ユン・ソクジョン担任牧師
教会新聞437号の記事です。